東京がまだ「東京府」と呼ばれていた大正期の世田谷は農地ばかりで、人口も少なく民家がポツポツと点在する程度の静かな地域でした。弊社の所在地世田谷区千歳台は、その当時千歳村廻沢と呼ばれ、品川用水が近くを流れ、あたり一面麦畑が広がっていました。
 この廻沢の地に、代々「大根屋」の屋号で農業を営んでいた島田家5代目の島田定芳が「電動機装置精米所 大根屋」の看板を掲げたのは、この廻沢の地に電気がやっと引かれた大正10年のことでした。看板の頭に「電動機」とわざわざ入れたのは、当時としてはハイテクな電気機器を使用し、当時主流の水車や風車に比べて精米、精麦が大量に、早く、確実にできるとアピールしたかったのではないかと思われます。
 昭和42年4月1日「株式会社島田製粉所」を6代目島田知之助が設立。一貫して「自然」「風土」を大切にしながら目で見て、手で触れて、勘を頼りに頑固な「粉名屋」を営んでいました。

 砂釜を導入したのは昭和20年代、現在島田製粉所で稼動している機械の大部分は昭和20年代から30年代に導入されたものです。消毒薬、漂白剤、添加物等の薬品類を使用することを嫌った6代目の意思は現在の7代目島田秀昭にしっかりと受け継がれています。
 
 「電動機装置」の看板を掲げて80年余。当初は、大量で早くが売りでございましたが、いつの間にか世の中の動きの方が早くなってしまった現代でも、粉名屋の機器は相変わらず創業当時と同じスピードで、同じ量をゆっくりと丁寧に粉を引き続けています。
 平成の時代になり、一面農地ばかりだった会社の敷地の周りには、いつの間にかマンションが立ち並び、一段と宅地化が進んでいます。島田製粉所敷地の周りに残された農地を利用して「大根屋 島田農園」を併設しております。島田農園の様子は、「島田農園の四季」ページをご覧ください。